「それ以来、ディリアス様は入室を許してくださいました。それも理由があってのことではありますが。そうして私の心は......その日から王女殿下の美しい寝顔を見ることにより、平穏さを保つようになったのです」
......語り終えたエミルは、もう死んでもいいとでも言いたげに、感極まっていた。
夜空には煌々と満月が浮かび、数えきれない星々が瞬いている。
夜風がリザレリスの頬をそっと撫でた。その時、風に飛ばされたしずくがきらめいた。
「お、王女殿下!?」
エミルは、ハッとする。リザレリスの頬に一筋の涙が光っていたから。
「あ、あれ?」
リザレリスは頬をぬぐう。自分でも気づかなかった。ただ、ひどく悲しい映画を観た直後のような脱力感に満たされていた。
遊び人だった前世の人格にも、このような感受性は備わっていた。むしろ案外涙もろいところもあった。なので、エミルの話は少々刺激が強過ぎたのかもしれない。
「も、申し訳ございません。私がつまらない話を長々としたばかりに。つい王女殿下の前で舞い上がり過ぎてしまいました」
どうして良いかわからず、エミルは深々と頭を下げた。まさか自分ごときの話に、王女殿下が涙を流されるわけがない。そうだ。眠くなっただけだーー。自らに言い聞かせるようにエミルは思い込んだ。
「べ、別に、謝ることじゃないけど......」そう言いながらリザレリスは、感想の言葉が見つからなかった。
目の前の美少年に比べて、前世の自分は遥かに平和で恵まれた人生を送ってきた。最後の最後で刺殺されたのも、馬鹿な自分の自業自得に過ぎない。そう思えば思うほど、恥ずかしくさえなる。
「な、なんというか......」
エミル・グレーアムが大変な人生を歩んできたということはよくわかった。それでもリザレリスには理解ができない。ひとりの女をそんなふうに想うという気持ちが。ましてや話したことすらない眠り姫にそこまで入れこむ気持ちが。
そこまで辛い思いをしてきた男の心を、眠っているだけの女が癒せるのか?コイツ大丈夫なのか?痛いヤツなのか?そうも思ってしまう。
「......それは、ひと目惚れっていうか、恋なのか?それとも、そういう類のものとはまた別のものなのか?」
リザレリスはエミルに問いかける。
「そう...ですね」
言葉を探すが、エミルは見つけられない。ただ、彼自身に確実にわかっているのは、この上もない喜びだった。
「......わたしは、こうして王女殿下とお話ができて、至上の幸福を味わっております」
「なんだよそれ」
リザレリスはエミルから視線を外すと、再び手すりに腕を乗せて夜景を眺める。
「まあでも、おまえが色々苦労してきたってのはよくわかったよ。本当に大変だったんだな。ここまでよく頑張ってきたよな。マジですごいと思う」
「もったいないお言葉でございます」エミルもリザレリスの隣につき、同じように夜景を眺めた。
「あと、おまえが悪い奴ではないんだろうなってこともよくわかった」
「そう...なのでしょうか」
「でもさ」
「?」
「本当にわたしがおまえの血を吸いたくなったらどうすんだ?」
おもむろにリザレリスはエミルに顔を向けた。金色の髪の毛が頬にかかる彼女の美しい顔が、エミルの瞳に映る。
「そのときは、喜んでこの身を捧げます。私は王女殿下のための生け贄ですから」
エミルには何の迷いもなく、義務感もなかった。心の底からそう思っていた。それは物事を深く考えないリザレリスにもしっかり伝わっていた。
「じゃ、そうなったときはよろしく頼むわ」
リザレリスは悪戯っぽくニッと笑った。
「イエス・ユア・ハイネス(かしこまりました)」
エミルは改めて忠誠を誓った。
その時だった。突然、リザレリスの身に異変が起こる。
「うっ...??」
やにわにリザレリスは胸を押さえ、その場にしゃがみ込んでうずくまった。
自分でも理解できないリザレリスは混乱する。ーーこの腹の底から疼いてくるような衝動はなんだ?
「王女殿下!?」
焦ったエミルが膝をついて呼びかけると、リザレリスはぷるぷると震えながらゆっくり顔を起こす。次の瞬間、エミルは大きく目を見張った。リザレリスの様子が、尋常じゃなかったから。
白い頬を紅く染め、細く整った眉を八の字にし、口唇の間から荒い吐息を洩らしながら、言いようのない苦悶の表情を浮かべるリザレリス。何よりその紅い瞳が、生々しい熱情に燃えていた。
「ほ、ほしい......」
「お、王女殿下、大丈夫ですか!?」
「欲しい......!」
「王女殿下??」
リザレリスは、がばっとエミルを押し倒した。豹変した王女が生け贄の美少年に馬乗りになる。それでもリザレリスは、抑えきれない欲動に抗おうとしていた。
しかしすでに状況を理解したエミルは、優しい夜風のようにリザレリスの頬へ、そっと手を触れる。
「我慢なさらないでください。覚悟はできています。私はいつでも構いません」
そう言ってエミルは襟元を緩めると、美少年を裏切らない純潔な首元を露わにした。その瞬間、吸血姫の瞳孔が散大する。
「あ、あ、ああ......」
もはや抗うことは敵わなかった。リザレリスの小さな口が官能的にひらき、その牙が剥き出しになる。そうしてリザレリスの顔は、生け贄の美少年の首元に吸い込まれていった。
「ん、ん、ん......」
後頭部に月光を浴び、仰向けになった美少年の首元にかぶりつく彼女の姿は、誰がどう見ても吸血鬼以外の何者でもなかった。
エミルは血を吸われながらも、その身は歓喜と愛おしさに満ち溢れていた。彼女の頭を愛でるように撫で、華奢な体を折れるほど抱きしめたいーー。
そんな想いに身を焦がしながらも、エミルは生け贄らしく無抵抗に堪えていた。生け贄の美少年は、どこまでも紳士だった。
「あ、あれは......!」
その時、やっと屋上に彼らを見い出したディリアスが現場に駆けつけてくる。しかし彼は距離を空けたままで踏み止まった。邪魔をしてはいけない...と。
「リザさま。おはようございます」起きるなり若くて美しい侍女がやさしく声をかけてきた。「おはよう。マデリーン」リザレリスが応えると、マデリーンは満面の笑みを浮かべた。「本日も朝からリザさまはとってもお可愛くていらっしゃいます」「マデリーンのほうこそ朝から美人だな」元遊び人らしくリザレリスも調子良く返した。するとマデリーンの顔がトロけるようにほころぶ。「そ、そんな、リザさまからそのようなお言葉をいただけるなんて」気をよくしたリザレリスは、マデリーンの頬にそっと手を触れる。「こんな綺麗な侍女がいてくれて、俺...わたしは幸せだぜ」「はあ!」マデリーンは膝から崩れ落ちた。「まったく朝から何をやっているんですか」後ろからルイーズが呆れながらやってきた。
【25】夜、皆が帰っていった後。リザレリスが自室に戻っていってから、居間でエミルはルイーズに訊ねた。言うまでもなくマデリーンについてのことだ。確かに彼女は、まるで人が変わったようにリザレリスへ従順になった。しかし彼女がリザレリスを傷つけたことは事実。それなのに侍女として彼女を迎え入れたのはどういうことなのか。「もちろん無条件に受け入れたのではありません。マデリーン・ラッチェンは、私の課した試験に合格したので採用しました」これがルイーズの回答だった。そして彼女はこうも付け加えた。「マデリーン・ラッチェンは、何もかも正直に話してくれましたよ。その上で彼女はリザレリス王女殿下の侍女になりたいと申しました。そんな彼女に対し、私は通常よりも遥かに厳しく試験と審査を行いました。しかし彼女は合格しました。ハッキリ言いましょう。彼女は優秀です。今後、彼女は必ず役立ってくれると私は判断しました」その説明は、エミルを納得させるに余りあるものだった。ルイーズという人間のことをエミルはよく知っている。彼女の課す試験と審査というものが、どれだけ厳しいのかを知っていた。エミルにとって彼女は、真の信頼に足る人物だった。彼は彼女を尊敬もしていた。「ルイーズさんがそう言うなら、そういうことなのでしょう」エミルが納得して見せると、ルイーズは口元を緩めた。
こうしてすっかり楽しい雰囲気となった彼らへ、サプライズが起こったのは夕食の時だった。食卓に着いた彼らのもとへ、ルイーズの指示に従い侍女が料理を運んでくる。最初は誰も気にしなかったが、ふと皆の視線が彼女に貼りついて固まった。ルイーズが満を持してといった具合に、咳払いをひとつする。「彼女は、本日から新しく侍女として入って参りました。マデリーン・ラッチェンです」侍女姿となったマデリーンは、リザレリスたちに顔を向け、挨拶する。「改めまして、本日よりリザレリス王女殿下の侍女としてこちらに勤めさせていただきます、マデリーン・ラッチェンです。どうぞよろしくお願いいたします」部屋に沈黙が訪れる。誰にも理解が追いつかない。皆が口を半開きにする中、フェリックスが吹き出した。「これは参ったな。さすがに僕にも予想外だったよ」笑い声を上げるフェリックスに、マデリーンが体を向ける。「フェリックス様の温情ある措置があったからこそ、今の私があります。本当にありがとうございました」彼女の謝意に対しフェリックスが会釈した時、ようやくリザレリスたちも一斉に声を上げた。「えええー!?」
放課後、肩を落として校舎から出てくるリザリレスを待っていたのは、レイナードとフェリックスだった。このタイミングでこのふたりが待っていたということは、理由はひとつだろう。「リザも聞いていると思うけど」とフェリックスは前置きして、リザレリスの反応を窺ってきた。リザリレスは無言で頷く。それを確認すると、彼は申し訳なさそうな顔を浮かべた。「彼女が自分自身で決めたことだから、これ以上は僕にもどうにもできない」そんなフェリックスに、レイナードは言う。「いや、兄貴は最大限のことをやってくれた。俺なんか最初からなんもできてねえ」レイナードは悔しさに唇を噛んだ。空気が重くなっている彼らを、周囲の生徒たちは不思議そうに眺めていた。いったい王子ふたりが一年生と何を話しているんだろう、という目で。マズイと思ったエミルとクララが視線を交わし合う。「早く参りましょう!」エミルとクララに促され、リザレリスたちは歩き出した。一行が乗り込んだ馬車がリザリレスの屋敷に到着すると、クララが遠慮がちに口をひらく。「ほ、本当に、私までよろしいんですか?」「当たり前じゃん。こんな日だからこそ今日はみんなで楽しみたいんだよ。クララもいてくんなきゃ困る」
人気のない校舎の裏庭までやって来ると、マデリーンが立ち止まり、こちらへ振り向いた。彼女は周囲を見まわしてから、クララへ顔を向ける。「巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」自分への謝罪にびっくりしたクララは、慌てて手を横に振った。「わ、私は、むしろ加害者側で」「違う。貴女も私の被害者よ。それに貴女がいなければ本当に取り返しのつかないことになっていたかもしれない」「そ、そんな、私は」「ごめんなさい。そして、ブラッドヘルム王女様を救ってくれてありがとう」「わ、私は、できることをやっただけです」クララは複雑な胸中で恐縮するが、マデリーンの様子には安堵していた。それからマデリーンは、改まってリザリレスの方へ向く。「ブラッドヘルムさん。いえ、リザレリス王女殿下」「は、はい」やけに畏まった様子にリザリレスはやや戸惑うが、このあとさらに困惑させられる。マデリーンが跪いてきたのだ。「この度は、多大なご迷惑を
【24】シルヴィアンナと取り巻きは、教室で呆気に取られていた。あの日の翌日以降、リザリレスが何も気にしていないからだ。怒るでもなければ怖がるでもなし。文句すら言ってこない。ただ何事もなかったように、教室でも外でも普通に明るく楽しく過ごしている。「どういうことなんでしょう......」取り巻きが言うと、シルヴィアンナはふんと鼻を鳴らす。「それよりもラッチェン先輩の停学処分が気になるわ。あの人、いったい何をやったの?」「さあ。あのあと私たちはそのまま帰ってしまいましたから......」「そういう約束だったからそれは仕方ないわ。ただ、あの人の停学処分の理由がわからないと、何となくわたくしたちも大人しくせざるをえないじゃない」マデリーン・ラッチェン停学については、一年生の間でも噂が広がっていた。何せマデリーンは第二王子の恋人だった女。その彼女が停学処分となったのだから、何かと勘ぐられ、囁かれてしまうのは仕方がないことだろう。ただし噂はどれも憶測レベルで、信憑性に欠けるものだった。 「し、シルヴィア様の、おっしゃるとおりです」おずおずと取り巻きは答えた。そうとしか答えようがなかった。シルヴィアンナは苛立ちを滲ませる。